ららマジ 第五幕の元ネタ解説

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元ネタ解説、第五幕『ある晴れた日に』。

昔から今へと、感情の連鎖を紐解くように、解説してみました。

透明な少女と車輪の下

第五幕で、結菜先輩が百花部長に貸した本。

それがヘルマン・ヘッセの自伝的小説、『車輪の下』です。

同著者の『少年の日の思い出』が国語の教科書に掲載されているため、知っている方も多いかもしれませんね。

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実は、この『車輪の下』が登場したのは、この場面だけではありません。

回想の中で中学時代の結菜先輩が読んでいた小説としても出てきます。

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右側のページ、最初のところをよく見てみると……

車輪の下』は少年ハンスが、

 られた大人   

    こと  はじまります。

と、ところどころですが、読むことができます。

ちなみに、左側のページは右側のを左右反転させたものでした。

 

作中で名が出た『車輪の下』は、第五幕を語る上で……いや、神代結菜という人物について語る上で、欠かすことの出来ない作品です。

まずは、あらすじから紹介していきましょう。

注:この記事では松永美穂訳の『車輪の下で』(光文社古典新訳文庫)から引用しています。

車輪の下で (光文社古典新訳文庫)

 

 

運命の車輪の下で喘ぐ少年の話

主人公、ハンス・ギーベンラートは才能に恵まれた子供でした。

彼が育ったのは、自然豊かなシュヴァルツヴァルト地方の小さな町、シュヴァーベン。

そんな田舎町で、才能ある男の子が選択できる道は1つしかありませんでした。

国が地方の秀才たちを選りすぐるために実施する「州試験」に合格し、神学校へと入ることです。

その後は、大抵の人が牧師か教員になります。

 

学校でトップの成績を収めていた彼は、苛烈な受験戦争に不安を覚え、ノイローゼの症状である頭痛を感じ始めます。

しかし、それでも町で唯一の受験生として、州試験へ挑みました。

そして、ハンスは見事に試験に合格。

それも2番の成績で、です。

 

当然ですが、神学校へと進学すると勉強も更に難しいものになります。

同学年の生徒に勝つためにも、教会の牧師や学校の校長からもっと頑張るように諭されました。

ハンス自身もまた、その必要性を感じていたので、成績を維持するためにも勉学に励むようになります。

 

こうして周囲の期待も一身に背負い、神学校へと入学しました。

そこで出会い、親友となるのがヘルマン・ハイルナー。

シュヴァルツヴァルトの上流家庭出身で、洗練された知性を持つ詩人です。

 

このハイルナーは、学校では反抗的な態度をとり、教師から問題児として扱われるような人でした。

一方、ハンスはいわゆる「ガリ勉」で、他人を見下すことのあるプライドの高い優等生です。

 

一見すると不釣合いな2人でしたが、ハンスはハイルナーとの友情に喜びを見出していきます。

ずっと勉強に身を捧げてきたハンスにとって、その友情は今まで出来なかったことを埋め合わせていく、宝のようなものでした。

そして関係が深まるにつれて、勉学に集中できず、授業についていけなくなります。

 

のちにハイルナーは神学校を脱走して問題を起こし、懲戒処分を受けて退学。

その後、ハイルナーとは一切連絡を取れませんでした。

これをきっかけに、ハンスの患っていたノイローゼが強くなり、療養のため故郷へと戻ることになります。

 

故郷に戻ったハンスは、かつて勉強を教えてくれた牧師や校長と疎遠になったことで孤独を感じます。

それでも時間が経過すると、少しずつ精神が安定してきました。

 

この自然の豊かな町では、秋になると、果実を圧搾機にかけて果汁を搾り出すのが恒例です。

ハンスもフランク親方の下で、圧搾の手伝いをすることになり、そこでかつて憧れていたエンマと再会します。

ハンスは彼女と恋をしました。

しかし、エンマはハンスに別れも告げずに、大都市ハイルブロンへと帰ります。

それによってハンスは遊ばれていたことに気付き、失恋のショックを受けるのです。

 

それからは父親の勧めもあって、機械工として働き始めました。

失意の底にあったハンスは、職場の同僚らと飲みに行き、帰り道で酔ったまま川へと落ちて……

翌日、冷たくなった遺体で発見されます。

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主人公、死んでしまいましたね。

結菜先輩から初めて借りたお気に入りの一冊がこれでは……次は明るいものを、と百花部長が言うのも納得です。

 

 

『車輪』の意味とノイローゼの原因

タイトルに使われている「車輪」には様々な意味が込められています。

車輪と訳された単語は、ドイツ語で「Rad」。

ハンスが機械工の見習いになって、最初に扱う部品が「歯車」でした。

それ以外に「有為転変」(世の中のすべての現象や存在は常に移り変わるものであって、決して一定しているものではないこと)も意味しています。

 

 

ところで、ハンスがノイローゼになり、亡くなった原因は何だったのでしょうか?

親友ハイルナーと別れたこと、あるいはエンマとの失恋でしょうか?

 

それが根本的な原因ではありません。

物語の結末で、登場人物の一人である靴屋のフランク親方がある主張をしています。

ハンスの身に起きた不幸は、教師たちによって招かれたものだとされているのです。

彼は優等生になりたかった。

いったい何故だろう?

それは自分でもわからなかった。

三年前から彼は注目の的となり、教師も、牧師も、父も、さらには校長までもが彼を激励し、たきつけ、次から次へと課題を与えてきたのだった。

車輪の下、第2章より)

ハンスは間違いなく、誰の目から見ても、才能を持っていました。

ハンス自身が無自覚でも、周囲が彼を放っておくことはありえません。

教師たちは彼に勉強するのを強いていたのです。

 

親友のハイルナーと親しくなることで、ハンスは勉強し続ける意欲を失いました。

それについて神学校の校長に問われる場面があります。

「以前の方がもっと熱心に勉強していた。何故それが失われたのか?」との質問に対し、ハンスは答えられる範囲で答えていきました。

ですが、校長は納得しなかったようで……

「それではまったく理解できないね、若い友よ。何か足りないことがあるはずなんだがね。きちんと努力することを約束してくれるかね?」

ハンスは自分の手を、権力者が差し伸べた右手の上においた。

校長はきまじめな穏やかさでハンスを見つめていた。

「よろしい、それでいいよ、きみ。手を抜いちゃいかんよ、さもないと車輪の下敷きになってしまうからね

車輪の下、第4章より)

車輪の下敷きになる、ドイツ語でUnter die Rader geratenは、「落ちぶれる」を意味します。

州試験に合格し、神学校へ行き、牧師か教員になるためのレールの上を、ハンスは常に歩いていました。

それを外れたら「車輪の下敷きになる」と、ここでは校長に警告されているのです。

 

周囲の大人、特にハンスの場合は、教師によって押し付けられたものにより、自分の個性を殺すことを余儀なくされた。

それが原因だと、ヘッセは作品を通して訴えたかったのです。

 

 

灰色の日々を過ごす透明な少女

では、中学時代の結菜先輩はどうだったのでしょうか?

その頃の私は、学校でも、休み時間は基本的にひとりでした。

本を読んでいることが多かったように思います。

~中略~

正直自覚はないんですが……親が共働きだったからかもしれないですね。

小さな頃から、周りによく、大人びているねって、言われてました。

学校から帰ったら、基本的にひとりでしたし  

自分のことは自分でするようにしていましたから。

この子はひとりにしても大丈夫。

みたいなイメージが周囲の人たちにはあったのかもしれません。

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両親とも仕事で忙しく、「この子はひとりにしても大丈夫」と思う人たち。

きっと、「いい子」でいることを期待されていたのでしょう。

それが結菜先輩に周囲から押し付けられたイメージで。

それを少年ハンスに重ねたのかもしれません。

第1場の終盤では、水音が聞こえてきました。

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あれは中学時代の彼女が泣いた時のもので  

涙でできた水たまりに、涙が落ちる音だったのではないかと思っています。

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作中でも言及されているように、彼女こそが「心の傷」でした。

 

中学生の結菜先輩は、姿の見えない「透明な少女」として、夢世界に現れます。

心の傷はハンスと同じです。

自分を押し殺すことで、周りの期待に対し、過剰に適応したこと。

時代や環境は違えど、『車輪の下』の主人公に共感するものがあったのでしょう。

 

だからこそ  

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昔の結菜先輩が涙を落とした先にあった本が『車輪の下』だった。

……のかもしれませんね。

 

 

ディスコード『過剰適応』

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1体目のディスコード、オーバー・アダプテイションは訳すと「過剰適応」です。

 

ディスコードである薄汚れたクマは、糸がほつれ、中の綿が飛び出していました。

「過剰適応」という名の通り、その姿も廃墟と化した遊園地(周囲)に適したものになっています。

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「過剰適応」は、アメリカの精神科医精神分析家であるピーター・E・シフネオス(Peter E. Sifneos)が心身症の発症要因の一つとして挙げました。

のちに登場する「アレキシサイミア(失感情症)」を指摘したのも、この方です。

 

この「過剰適応」は、結菜先輩の『心の傷』を表した言葉として使われています。

周囲の期待に敏感になり、自分の感情を押し殺した状態のことですね。

 

ヘッセは「過剰適応」の原因を周りの大人、特に教師に求めていました。

しかし、ららマジでは異なっています。

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結菜先輩の傷は、周りの大人が原因なのかな、と疑問を呈する紗彩ちゃん。

それに対し、ホニャちゃんが……

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自分自身の在り方が問題であると言っていました。

 

これらはどちらとも間違いではありません。

車輪の下』では、ひとりの少年の破滅を通して、子供に対する大人への無理解を告発する意図がありました。

それゆえにヘッセは周囲の環境に重点を置いています。

 

ですが、ららマジで重視しているのは「心」です。

だから、周りの顔色を疑って大人ぶり、素直でないところが原因だった、としているんですね。

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(アナザーメモリー、『おわりのしばらくあと』より)

そんなわけで、灰色の日々から救われた彼女が、『素直な気持ちを言葉にすることはとても大切』と言っているのは、傷を乗り越えた証でもあるのです。

 

余談ですが……

もしかしたら、超自我がノイズをコントロールした能力も、呪いに過剰に適応したものだと、ある意味で言えるのかもしれませんね。

 

 

太陽のような人と融けゆくウソ

「過剰適応」は、他者の期待に対して、過剰に敏感になることです。

ずっと気を張ったままでいたら、自然と体力を消耗するでしょう。

そうなれば、おのずと大勢の人が居る場面では疲れてしまいます。

ならば、当然、ひとりでいる時の方が楽になるはずです。

色んな人と関わって、ケンカしたり笑い合ったり  

そういうのはなんだか、大変そうというか、ちょっと怖いというか……。

ひとりの方が、気楽だなーとか。

自分に言い聞かせていて……。

昔の私は、そういう人間だったんです。

回想の中での結菜先輩の発言がそれにあたりますね。

 

また、人の顔色を疑うことは、人をよく観察しなければ出来ないことです。

チューナーズノート(P36)の結菜先輩の趣味の欄にも「人間観察」とありました。

これが同時に「人のウソを見抜く」ための洞察力を高める要因にもなっています。

 

「他者の期待に対して、過剰に敏感になること」(過剰適応)が「人のウソを見抜くこと」につながっているのは面白いですね。

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(アナザーメモリー、『おわりのしばらくあと』より)

ウソといえば……

過剰適応は、自分の感情を抑制することで、周囲に同調していました。

この「感情を抑制する」も言い換えれば、自分にウソをつくことです。

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(アナザーメモリー、『おわりのしばらくあと』より)

自分にウソをつくことは、他者に自分の素直な気持ちを伝えないことです。

これは他者と気持ちを共有する機会を奪うことになります。

それが、生きづらさや閉塞感、寂しさや孤独感を引き起こす要因となっていました。

私は多分、小さな頃からずっと心のどこかで待っていたんです。

私の手を引いてくれる誰かを。

この身体にまとわりつく靄を振り払ってくれる誰かを。

私を見つめて、微笑みかけてくれる誰かを。

結菜先輩の感じていた「靄」は、「自分自身へのウソ」が問題だったわけです。

だからこそ『素直な気持ちを言葉にすることはとても大切』なのでした。

 

で、結菜先輩は手を引いてくれる「誰か」を待っていたわけですが……。

車輪の下』にも似た描写があります。

神学校に入ったハンスが、まだハイルナーと親しくなる頃の話です。

まるで内気な少女のように、ハンスは座して、誰かが迎えに来てくれるのを待っていた。

自分よりも強くて大胆な誰かが、自分を引っさらい、無理やり幸せにしてくれるのを。

車輪の下、第3章より)

結菜先輩が「誰か」を待っていたように、ハンスも「誰か」を待っていました。

言うまでもなく、その「誰か」とは「親友」です。

結菜先輩にとっては百花部長、ハンスにとってのハイルナーですね。

 

結菜先輩と百花部長の出会いは、好きな本の貸し借りから始まっています。

自分の好きなものを共有する行為、そのものが素直な気持ちを伝えるためのハードルを下げてくれていたのです。

結菜先輩が前へと1歩踏み出すきっかけになっています。

 

そこからは、百花部長が引っ張ってくれたおかげで結菜先輩は救われました。

いつも全力で、明るくて、太陽みたいな百花部長にしか出来ないことですね!

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(マイクロファーバータオルの版権イラストより)

 

そして、同時に……

結菜先輩の百花部長に対する、相当な信頼の厚さが伺えます。

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(『ハッピーバースデー! 百花!!』の結菜先輩のボイスメッセージより)

 

 

オペラ『蝶々夫人

第五幕のタイトル『ある晴れた日に』。

その名の由来となったアリアが、ジャコモ・プッチーニ作曲のオペラ『蝶々夫人』で登場します。

舞台が日本の長崎になっており、非常に日本に馴染みのある作品です。

 

プッチーニ:歌劇《蝶々夫人》 [DVD]

まずは、あらすじから紹介していきます。

 

【第1幕】

日本人の少女と結婚することになった、アメリカ海軍仕官のピンカートン。

長崎に来た彼は、結婚を斡旋しているゴローの紹介により、本作の主人公である蝶々さんと結婚します。

蝶々さんは彼との結婚に対して本気であり、キリスト教に改宗するなどしました。

しかし、友人や親戚(特に叔父)による反対の声が激しく、蝶々さんは身内との縁を切ることになります。

 

【第2幕】

結婚してから時が経ち、任務を終えたピンカートンはアメリカへと戻りました。

彼との間に産まれた子を育てつつ、ずっと一途な蝶々さんは、「コマドリがヒナを孵す頃に帰ってくる」と言う彼の言葉を信じて待ちます。

 

一方、ピンカートン自身は最初から彼女に、本気で好意を抱いてはいませんでした。

彼女も方も時間が経てば忘れるだろうと思っていたのです。

そのピンカートンは、本国アメリカで、同じアメリカ人のケイトと結婚します。

 

【第3幕】

周囲から蝶々さんのところへ、悪い話が多く来る最中、ある日、ピンカートンの所属する艦の礼砲が轟きます。

蝶々さんは彼が会いに来ると信じ、一晩待ちました。

ですが、彼は一向に現れず、蝶々さんは家の外へと出ます。

そこで対面したのは……彼の妻のケイトさんでした。

 

ショックを受けた蝶々さんは、彼との子供を外へ遊びに行かせ、閉め切った部屋の中で、父の遺品である短刀を手に取り……。

 

それと時を同じくして、ピンカートンは異変を感じ、蝶々さんを探し始めます。

しかし見つけた時には、すでに蝶々さんの息は絶えていました。

 

車輪の下』と同じく、主人公の死によって幕が閉じました。

この物語もまた「悲劇」だったようです。

 

 

喪失感と絶望の証明

結菜先輩には親友である百花部長がいます。

同じように『車輪の下』のハンスにも、信じ続けた親友のハイルナーがいました。

加えて『蝶々夫人』では、蝶々さんが夫だったピンカートンのことをずっと想い続けていました。

 

しかし、ピンカートンは蝶々さんに一途だったわけではなく、時間が経てば忘れ去られるだろうくらいにしか考えていません。

それにより、待ち続けた蝶々さんの気持ちが、ピンカートンに踏みにじられる結果となりました。

 

ところで、『車輪の下』のハンスもエンマに失恋していましたが……。

彼はエンマの笑い声やキス、彼女が余裕たっぷりに身を委ねてきたことなどを思い出した。

彼女はハンスのことを本気で相手にしていなかったのだ。

車輪の下、第7章より)

これも同じ理由です。

どちらも想い人が、自分に対して真剣ではなかったのですね。

 

 

そして、どの作品も……

  • 夫だったピンカートンが知らぬうちにケイトを娶っていた。(蝶々夫人
  • 親友のハイルナーは懲戒処分により退学。それ以降連絡が取れず。(車輪の下
  • 初恋の相手、エンマは別れも言わずに実家へと帰りました。(車輪の下
  • 器楽部員は呪いにかかり、皆で集まることがなくなった。(ららマジ)
  • 百花部長も学園にあまり来なくなって……。(ららマジ)

信じていたものを失った喪失感が描かれています。

 

 

アリアの『ある晴れた日に』について、もう少し掘り下げていきましょう。

歌われるのは『蝶々夫人』の第2幕でのことです。

ピンカートンが帰国した後、蝶々さんに仕えているスズキは、彼の帰りを疑いました。

そのスズキに向かって、蝶々さんが「私はあの方の帰りを信じているわ」と歌うのが『ある晴れた日に』です。

ある晴れた日に、私たちは見るのよ

ひとすじの煙が昇るのを

水平線の彼方に

そして船が現れるの

やがてその白い船

港に入り 礼砲を鳴らすの

見える? あの方が来るでしょ

~中略~

あの方は少し心配して呼んで下さるわ

こう呼ぶの 「可愛い妻よ バーベナの花の香りよ」って

これはあの人がやって来た時につけてくれた名前なの

 

(スズキに対して)

きっとこうなるはずよ 約束するわ

だからあなたの心配事はしまっておいて

心から信じて 私はあの方を待ってるの

オペラ対訳プロジェクトより引用*1

「戻ってくると信じている」という想い、これを強調していることから、その後に訪れる別れの辛さがより一層強まります。

 

さて、次の第3幕では、蝶々さんがケイトと会う前に、スズキが会っていました。

その場面がこちらです。

(スズキは驚きのあまり、天に向かって両腕を上げ、それから地面に崩れ落ちて顔を地面に埋める)

ご先祖さまの聖なる御魂よ!

あの方の太陽は消えてしまった

太陽は消えてしまった!...

オペラ対訳プロジェクトより引用*2

スズキが蝶々さんにとってピンカートンは「太陽」だと例えています。

偶然か意図的か、分かりませんが……百花部長にも同じ例えが使われていました。

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その後、スズキはケイトからある頼みごとされます。

「蝶々さんの子供を私に預けてもらえないか」、それをスズキの方から蝶々さんに伝えてほしいと言ってきました。

 

しかし、この直後に、不本意にも蝶々さんはケイトと会ってしまいます。

蝶々さんの受けた「嘆き」は「絶望」へと変わりました。

蝶々さんはすぐに、スズキやケイトを、理由をつけて部屋から遠ざかさせます。

そして、父の遺品だった短刀を手に取り……。

短刀に刻まれた言葉、「名誉に生きられぬ者は 名誉に死すべし」を読んで、自害しました。

 

 

第5幕第3場では、超自我の結菜先輩が登場します。

その超自我は倫理感や理想を司る精神である、とホニャは言っていましたね。

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結菜先輩にとっての理想は、器楽部で交わした約束を果たすこと。

 

「名誉に生きられぬ者は 名誉に死すべし」

まるで蝶々夫人が自害する覚悟を持っていたように  

彼女は、ノイズによる精神の死を覚悟します。

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あの日の約束を果たすため。

「喪失感」が「絶望」を経て得た、その「原動力」。

理不尽な呪いに対して湧き上がる感情はただ1つだけ。

  『怒り』です。

 

 

怒りの日(Dies irae

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ご存知、第五幕第3場のタイトルです。

超自我である結菜先輩が使役するディスコードの名でもありますね。

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「ディエス・イレ」(怒りの日)は、ミサで用いる聖歌(レクイエム)の曲目の1つです。

ミサとは、イエス・キリストの死と復活を記念した感謝の祭儀のこと。

レイクエムは、そのミサで「死者の安息を神に願うために」歌われるものですね。

 

このレクイエムには、いわゆる「三大レクイエム」と呼ばれる、モーツァルトヴェルディフォーレの3作品があります。

 

モーツァルトと言えば……第二幕『アマデウス』の解説の際にも、レクイエムに触れていました。

ミサはカトリック教会の祭儀のみを指すものなのですが、サリエリも熱心なカトリックだったことを第二幕で紹介しました。

 

チューナーズノート(P77)の音楽用語辞典の最後にも、レクイエムについて書いてありますね。

モーツァルトが生前最後に手掛けたミサ曲。

未完のままモーツァルトはこの世を去るが、その後、弟子のフランツ・クサヴァー・ジュースマイヤーが補筆完成させた。

(チューナーズノートより)

そして、そのレクイエムの初演を担当したのがサリエリでした。

 

レクイエムの曲目の1つが『怒りの日』(ディエス・イレ)。

その『怒りの日』とは、世界の終焉後に人間が生前の行いを審判され、天国か地獄行きかを選別する日のことです。

曲には、以下のような歌詞が付いています。

怒りの日、その日は
ダビデとシビラの預言のとおり
世界が灰燼に帰す日です。
審判者があらわれて
すべてが厳しく裁かれるとき
その恐ろしさはどれほどでしょうか。

『怒りの日』wikipediaより引用*3

審判者が現われ、厳しく裁かれるという字面から

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プロローグの、『あの日』の一場面を連想してしまいますが……。

それに関しては、そっとしておきましょう。

 

 

対峙する2つの強い意志

結菜先輩の超自我に話を戻します。

 

結菜先輩の心には、ホニャちゃんを止めなければならないという焦りがありました。

自分を犠牲にしてでも、器楽部での約束を果たすため、『あの日』の出来事を明らかにしようとしています。

 

それに対し、チューナー君は器楽部員全員を救おうとしていました。

結菜先輩は、ホニャちゃんがウソをついていると言い、ホニャちゃんは結菜先輩を助けるには戦うしかないと言います。

ここでチューナー君は、ホニャちゃんか結菜先輩か、どちらを信じるか問われました。

 

チューナー君にとって、結菜先輩が犠牲を払おうとしていることは見逃せません。

ならば当然、チューナー君が取ることの出来る選択肢は1つだけですね。

 

結菜先輩も救うために、結菜先輩と対峙することを選びます。

結果として、2体目のディスコードと戦うことになり、勝利を収めました。

 

ノイズをコントロールする力と、調律して呪いを解くノートゥング。

この能力の違いだけでなく、結菜先輩とチューナー君の差が、両者のスタンスにも表れていました。

 

器楽部の呪いに「ひとりで」対抗した結菜先輩に対し、「皆を支えることで」呪いと戦うチューナー君。

 

普段からホニャちゃんに、「英雄」と呼ばれているチューナー君です。

結菜先輩が犠牲になることを認めなかった姿勢には、「英雄」としての一端を感じらさせるものがありました。

 

それから、結菜先輩がたった「ひとりで」立ち向かおうとした姿勢。

超自我である結菜先輩の行動しだいでは、「協力して」解決する方法があったかもしれません。

そうしなかったところに、孤独だった時の「なごり」が見られます。

 

ひとりぼっち「だった」ことを気にかけて書くことが大切。

ららマジのメインシナリオを担当している西村悠氏が、チューナーズノート2(P28)でそのようなコメントをしていました。

その意味を、少しでも理解してもらえたなら、幸いです。

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(アナザーメモリー、『おわりのしばらくあと』より)

さて  

だいぶ長くなってしまった第五幕の解説をまとめてみましょう。

 

車輪の下』からは、『心の傷』となった寂しさや孤独をハンスに重ねていました。

さらにハンスとハイルナーの関係から、百花部長や器楽部との関係に『救い』を見出しています。

 

蝶々夫人』(特に『ある晴れて日に』)から、信頼していた人・場所が奪われた喪失感と、自己を犠牲にするほどの絶望が描き出されていました。

この喪失感もまた、『車輪の下』におけるエンマとの失恋にかけていたものです。

 

そして、『救い』を奪った呪いに対する怒りと、ららマジの裏側にあるストーリーの一部を垣間見せた『怒りの日』(ディエス・イレ)。

これらが重なり合い、組み合わさってできたもの。

それが第五幕でした。

 

 

何故?

この解説を書いている最中、疑問に感じたことがあります。

それは過去の回と比べてあまりにもネタが濃すぎること。

記号的なつながりだけでは解説できない「何か」が存在すること。

 

過去には、ネタがなくて迷走したこと(第三幕)もあったので、余計にそう感じるのかもしれませんが……。

明らかに何かがおかしい、ですよね?

 

第一部のラストとして、その謎は放置できません。(ひどい考察脳)

今回の記事が長くなってしまった、その原因。

情報の密度が高くなった理由を追究してみたいと思います!

 

 

この記事の最初に、車輪の下』はヘルマン・ヘッセの自伝的小説と書きました。

それはヘッセ自身の姿をハンス・ギーベンラートとヘルマン・ハイルナーに投影していたからに他なりません。

例えば、ヘッセ自身もハンスと同じように、州試験に合格し、神学校で苦い経験をしています。

ハイルナーと共通するのは、詩人としての素質や問題を起こして退学するところがそうですね。

 

それから、第五幕における『車輪の下』は、解説の中で幾度と無く登場していたことから、重要であることが分かりますね。

 

さて、本題です。

次の文章を読んでみてください。

・小さな頃から本が好きでした。中でも小説にはよく親しんでいました。

マンガはせっかく買ってもすぐ読み終わってしまう、テレビは見逃せばそれまで。

けれど小説は、図書館に行けばいくらでも貸してくれる。

物語としては、どの媒体にもそれぞれの良さがあって、きっと僕は、それが物語であるなら、わりとどの媒体でもよかったのだとは思うのです。

単純に、手に取りやすい、という、わりと消極的な理由で、小説を読んでいたのだと思います。

 

・小説のまねごとみたいなものを書き出したのは、確か中学3年の頃。

村上春樹の小説を読んでいて、なぜか自分も書きたくなって……という流れだったような気がします。

純文学っぽいものをノートに書いて、ひとりで悦にひたっていたような気がします。

 

・どこかで書いたような気がしますが、当時の僕は、あまり積極的に、深い人付き合いをするほうではなかったように思います。

部活とか、クラスのイベントとか、そういった枠があれば、その中に参加して、コミュニケーションを取れていたし、色々な人と仲良くもできていたのですが、そういった枠がなくなると途端に、感情のやりとりがひどく大変だった……ような気がします。

 

・ひとりで本を読んだり、ゲームをしたりするのが一番楽しかった。

 

・けれど、ひとりの時間が一番落ち着くというのは、それはそれで寂しく、自分は人として不十分なのではないかと不安になったりもします。

ですからその分、ひたすら本を読むという方向に気持ちが動いていったのだと思います。

なんとなく、そうすることで自分は充実していると、錯覚できていたのかもしれません。

 

・高校に通うようになるとその傾向はどんどん強くなっていって、学校に行こうとすると、急に腹痛が襲うようになりました。

で、学校についた頃には、覚悟が決まるのか、痛みも引いている。

毎日そんな感じだったような気がします。

 

・学校も1年の後半くらいになると、出席単位に引っかからない程度に、学校を早退するようになりました。

早退すると、学校の近くにある公園に行って、頃合いを見計らって、家に帰ったという電話をして、そのまま下校時間のちょっと前まで、本を読む。

というようなことをしょっちゅうやっていました。

当時の自分はそれがかっこいいことのように思っていたような気がしますが、結局のところ、それはただのサボりで、褒められたものではないです。本当に。

この雑記は、西村悠氏が自分が物書きになった経緯を書き綴ったものです。

西村氏のブログ、その2016年8月23日の雑記からの引用でした。

 

この雑記の様々な部分が、『車輪の下』と「神代結菜」に共通しているのを発見できますね。

車輪の下』で勉強の時にハンスが感じていた頭痛と、学校登校時の腹痛は、近いものかもしれません。

 

本が好きで、学校を早退し、公園で読書をして過ごしています。

当時の西村氏は、それがかっこいいものだと思っていた。

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感情のやりとりがひどく大変で、ひとりの時間が一番落ち着いた。

このあたりは、ほとんど結菜先輩そのものです。

 

以上から考えられること。

それはヘルマン・ヘッセの『車輪の下』におけるハンスやハイルナーと同じように。

神代結菜」は西村悠氏自身を投影したキャラクターなのではないかと。

 

そうであれば、自ずと『車輪の下』も西村氏にとっても、お気に入りで。

血となり肉となるような物語だったはずで。

それだけに元となった物語との「感情的な結びつき」が、非常に強くなった。

だからこそ、第五幕は『蝶々夫人』や『怒りの日』を破綻無く取り入れることが出来てて、情報の密度が他とは一線を画していたんです。

 

第五幕の熱量はすごいですね。

本当に、今回に関しては、ただただ感服するばかりでした。

 

 

マイペースに1年ほど続けてきた元ネタの解説も、ようやく第一部が終了。

ここまで読んでくれた「我が親愛なる読者」に感謝しつつ……。

  それでは、また第二部もよろしくお願いします。

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上手く解説の出来ていない点について、追記します。

(2019/5/31公開、2019/6/2追記実施)

実際に『車輪の下』を読んでいないと伝わりにくいことなのですが……

第五幕における神代結菜と『車輪の下』(主にハンス)の雰囲気はものすごく似通っています。

 

守られたいという気持ち、安心感、孤独……。

寂しい、でも少しだけ暖かくもある、そうして過ごせる大事な時間を「私」は持っているという感覚。

残像のように心の中に残る、もやっとしたもの。

 

それは繊細で傷つきやすい、神経の細やかな心の一面なのか。

それとも、読書を好むような、どことなく夢見がちな性質なのか。

 

あるいはハンスの故郷、シュヴァルツヴァルト地方にある広大な森林地帯と、結菜先輩がひとりで過ごした植物園。

少年/少女時代の大切な場所が、自然が豊富なところだったからなのか。

 

著者であるヘッセが13歳の頃、「詩人になりたい」という強い願望を持っていたように、西村氏が中学3年の時も、自然と小説を書き始めたからなのか。

 

このように数ある類似点を並べてみても、この感覚を説明することは難しい。

結果として、上手く解説できなかったと思います……。

 

 

ちなみに、『車輪の下』を読むのであれば、「新しく翻訳されたもの」をオススメします。

 

一般によく読まれているのは、「高橋健二訳の新潮文庫版」なのですが……正直、あまり良い和訳とは思えませんでした。

後に購入した「松永美穂訳の光文社古典新訳文庫版」の方が、細かいニュアンスを含め、正確に原作を伝えていると感じます。

新訳は以前のを参考にしていることが多いので、新訳の方が改良されている可能性が高いです。

そのため、「旧訳」より「新訳」をオススメしました。

 

 

本記事が12000字越え(第四幕の3倍)のボリュームとなってしまったので、最後まで読まれた方がいらっしゃることに驚いています。

本当にありがとうございました。

 

 

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